HISTORY
商店街組合の歴史
用賀商店会の誕生
関東大震災後、人口の移動が郊外に広がり始め、玉電用賀駅の玉川電車の沿線付近に民家が増加し、各商店も活況を呈してきました。昭和8年となり用賀の時計商、小倉卯之助を会長として、商工会が設けられましたが、統制経済移行の中では本格的な活動はできませんでした。
その後、耕地整理が行われた土地は良好な住宅地として人口を受入れ、用賀の商店街も住宅地対応の商店街として成長していきました。そして、戦後の混乱の中で、昭和22年、48店で用賀商店会が発足し、初代商店会長に鈴木直次が就任しました。
オリンピック東京大会
上用賀2丁目の馬事公苑は、昭和15年に行われる予定だったオリンピック馬術競技場として5万坪の土地が売却され造られましたが、戦争によって中止となり、それ以後は馬の訓練場として使用されてきましたが、昭和39年に、第18回オリンピック東京大会が開催されることになり、これに先立って国道246号線が整備されました。
昭和39年となり、東京オリンピック大会をむかえ、馬事公苑で馬術競技が行われ世界の注目を集めました。このとき用賀商店会では、全街路灯に、オリンピック旗を掲げて売り出し等を行い歓迎しました。このとき昭和39年の用賀商店会の会員数は163店でした。
玉川電車の廃止と新玉川線の開通
国道246号線の交通改善のため、昭和44年5月、住民に見送られながら、玉川電車は花電車を運転。二子玉川~渋谷間が砧線とともに廃止となり、以後交通機関はバス利用となってしまいました。これまでの用賀の街は大山通りと用賀中町通りが人の流れの主流となっていましたが、玉電の廃止により、人の流れは分散し、大きく変わっていきました。
昭和52年4月、長い年月を要した新玉川線の工事もついに完成しました。この間、駅出入り口の設置場所について、議論が交わされましたが最終的に現在の地に完成しました。用賀商店街では、これを祝して、新玉川線開通記念大売出し、及びイベントを盛大に行いました。
平成5年10月世田谷ビジネススクエアーが竣工しました。このビルは広大な敷地に地下2階地上29階建てのタワービルのほかに7つのビルをバランスよく配置し用賀駅と直結し、外には散歩路や庭園などを配して若者たちで賑わっています。これにより駅周辺並びに美術館通りが賑わいを増してきました。そして、昭和63年4月用賀商店会は用賀商店街振興組合となり商店街の活性化に向かって業務を開始しました。
用賀-その地名の由来
用賀村の誕生
「草分け七軒百姓」という言葉がある。信州飯田から菊地を名乗る三兄弟が共の者2人を連れてこの地に来て飯田と改め土着したといわれている。この五軒の家と元からこの地に住んでいた二軒の農家を併せた七軒を草分けといっていた。
「新編武蔵国風土記」には村の草創は、永禄、元亀の頃(1558〜72年)、飯田帯刀、同、図書、ナドトイヘル人の開発ナリトイヘドモ、スベテタシカナルコトハツタエズと記してあります。後に飯田帯刀の子、図書が真福寺を開基したことによって、村が開かれたといわれています。
用賀という地名は鎌倉時代初期に勢田郷に瑜伽(梵語:ユガ)の修験道場が開設され、後に真福寺の所有となったことからこの梵語「瑜伽:ユガ」がヨーガの地名となったといわれています。